自由意志の哲学と自由意志の実験哲学①

前回からずいぶん活動報告の間が空いてしまいました。先月、プロジェクト代表の稲荷森がスイス・チューリッヒ大学倫理センターで開催された3rd European Experimental Philosophy Conferenceに参加し、現在行っている自由意志の実験哲学的研究について報告を行いました。本日の記事ではその内容を取り上げます。

学会の集合写真(稲荷森は後ろから二列目)

自由意志の哲学においては、伝統的に決定論的世界と自由意志の両立可能性が問題となってきました。決定論的世界とは、平たく言えば、先行する原因と自然法則によって、そのあとに生じる事象がひとつに決定される世界のことです。たとえば以下のような状況を考えてみましょう。

ある宇宙(宇宙A)を想像してみてください。この宇宙で起こることはすべて、その前に起こったことのみに起因しています。これは宇宙の始まりから言えることで、宇宙の始まりに起こったことが次に起こったことを引き起こし、それが現在に至るまで続いているのです。たとえば、ある日太郎は昼食にフライドポテトを食べることにしました。この決定も、他のすべてのものと同様に、その前に起こったことのみに起因していたことになります。だから、もしこの宇宙のすべてが、太郎が決断するまで全く同じであったとしたら、太郎がフライドポテトを食べると決めることは、起こらざるを得ないことであったということです。
次に、起こることのほとんどすべてが、その前に起こったことのみに起因している宇宙(宇宙B)を想像してみてください。ただし、人間の意志決定だけは例外です。たとえば、ある日太郎が昼食にフライドポテトを食べると決めたとします。この宇宙では、人の決断はその前に起こったことのみに起因するわけではないので、たとえ太郎が決断するまで宇宙のすべてがまったく同じであったとしても、太郎がフライドポテトを食べようと決めることが起こらざるを得なかったわけではありません。彼は何か別のことを決めることができたのです。

つまり、宇宙Aでは、すべての決断は、その決断の前に起こったことのみに起因しており、過去を踏まえると、それぞれの決断はそのようにならざるを得ないのです。それに対して、宇宙 B では、決断は過去のみに起因するものではなく、人間の各決断が実際に起こる通りに起こらざるを得ないわけではありません。

このシナリオは、自由意志の実験哲学を代表する研究であるNichols & Knoba (2007)で用いられた決定論的宇宙の描写を日本語に翻訳したものです。この描写を読んで、宇宙Aは私たちの宇宙とは全く異なるとか、あるいはこうした宇宙はありえない、といった考えをもつ人もいるかもしれませんが、とりあえず宇宙Aが可能だと想定してみてください。宇宙Aのように決定論的な世界において、人間は自由意志をもつでしょうか?自らの行為に対して道徳的責任を負うことはできるでしょうか?これこそまさしく、哲学者が長きにわたって議論してきた問題です。

宇宙Aのような想定は突拍子もないもののように思えますが、このような問いは、実は私たちの日常的な想定と密接にかかわっています。私たちは普段、悪いことをした人は罰や非難に値するという想定の下に生きています。しかし、どんな凶悪犯罪者であっても、その凶行の原因が重度の精神疾患であるという場合、その人は責任帰属の対象であるとはみなされません。なぜなら、その人の行為は彼の自由意志によるものではないから、言い換えれば、そうした人は道徳的責任に必要な自由意志を有さないからです。見方を変えれば、私たちが誰かを非難するのは、人々が自由意志をもつ行為主体であると想定しているからであり、社会のシステムもそのような前提のもとで設計されています。

では、私たちが普段想定している自由意志とはいったいどのような能力なのでしょうか?どういった条件が満たされていれば自由意志をもっていると言えるかは、考えてみると難しい問題です。単に私たちが欲求したり、意志したことに基づいて行動できていれば、それで十分だと考える人もいるかもしれません。しかし、私が自分の欲求や意志に従って行動できているとしても、私が何を欲求するかということそれ自体は、必ずしも私次第ではないように思われます。たとえば、あなたが夕飯に何を食べようか考えながら帰路についていると、たまたま新しくできたラーメン屋を見つけたので、そこに入ってラーメンを食べたとしましょう。この選択って自由でしょうか?少なくとも、「ラーメンを食べたい」という欲求は、あなたのコントロールを超え出た原因≒「ラーメン屋の存在」に起因しているように思えます。それでも最終的にラーメン屋に入るという選択をしたのは私自身だ、と考えたくなるかもしれませんが、そうした選択もまた、あなたの空腹感や食べ物の選好、ラーメン屋の見た目といった要因によってあらかじめ決定づけられていたのではないでしょうか?午後の天気がどうなるかは、午前の雲の配置や気圧といった要因によって決定されます。天気と同様、ある時点における人間の選択は、それに先立つ時点の要因によって決定されているのかもしれません。もしあなたのあらゆる選択が先行する要因によって決定づけられているとしても、なおもあなたの選択は重要な意味で自由であるといえるでしょうか?このように、「自由意志とは何か」という問題を考える上で、「自由」が「決定されていること」と両立可能か否か、という問題を避けて通ることはできません。哲学者が決定論と自由意志の両立可能性を問題にしてきたのはそのためです。

では、決定論と自由意志は両立するのでしょうか?この問題をめぐる立場は、自由意志と決定論は両立すると考える「両立論」と、自由意志と決定論は両立しないと考える「非両立論」に大別されます。前回の記事でもお伝えした通り、現代哲学においては哲学的思考実験における直観的判断が、哲学理論に対する証拠としての役割を担ってきました。この傾向は自由意志の哲学にも当てはまります。つまり現代の自由意志論では、両立論と非両立論のいずれが直観的であるのか、という点を中心に様々な議論がなされてきたのです。

哲学者はこの問題を解決するために、決定論的状況に関する様々な思考実験を提示し、決定論的行為に対する私たちの直観を明らかにしようと試みてきました。ここでは詳しく述べませんが、代表的な思考実験としては「操作論証」や「フランクファート型事例」などが挙げられます。決定論と直観をめぐる問題は長らく哲学者の間で探究されてきたのですが、前回の記事でも紹介した通り、実験哲学の興隆に伴い、現在ではこの問題でも一般人の直観が経験的に調べられるようになっています。

しかし、こうした「自由意志の実験哲学」には大きな問題があります。それは、実験に参加する一般人の多くは、提示された決定論的シナリオを正確に理解できない、ということです。人々が決定論を正確に理解できないとなれば、当然決定論的行為と自由意志について人々がどういった直観をもつのか調べることもできません。そこで我々の研究では、新たなアプローチを用いて理解度を向上し、人々の直観を明らかにすることを試みました。

さて、ここからやっと本題といったところなのですが、今回は自由意志の哲学を説明するのに大分紙幅を割いてしまったので、実験の詳細については次回の記事でまた紹介させていただきます(続く…)


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